ネットの海の片隅で

技術ネタの放流、あるいは不法投棄。

報われてほしい人たちと万人のための Web

ちょっと前からぼんやり考えてることがあるので、そのモヤモヤを整理しようと思ったものの、まだ整理できてないのでモヤモヤしたまま一度書き出してみる。

TL; DR

チラ裏

気になっているもの

最近、note というサービスが気になっている。

description によると、

note(ノート)は、文章、写真、イラスト、音楽、映像などを手軽に投稿できるクリエイターと読者をつなぐサービスです。ブログのように使うことも、SNSのように使うことも、コンテンツを販売することも自在に活用いただけます。

とのことらしい。

自分がよく目にするのは主にブログとしての使われ方なんだけど、作者に対して投げ銭的な支援をできたり有料記事を販売したりという使い方ができる。

そして、有料記事というものに対して少し前からモヤりを感じている。 つまり、誤解を恐れずに言ってしまうと、記事が有料であるというところにひっかかりを感じているのだと思う。

「お金を払いたくない」わけではないはず

なお、自分はコンテンツだったり情報にお金を払うことには比較的抵抗がない人間だと思っている。

物理書籍には昔から課金しまくっているし、Kindle も1600冊以上買っている。 App Store でソフトウェアに課金するのに抵抗はないし、某デジタル配信商品を扱っているサイトでもそこそこお金を使っている。

何かをつくっている人や価値を提供している人は尊重されるべきだと思っているし然るべき対価が支払われてほしいとも思っている。

なのに、note の有料記事に対してはなぜかひっかかりを感じていて、その感覚と上記のスタンスの間に矛盾を感じていた。

「無料の Web」という呪い

そこでいろいろと考えてみると、なんだかんだ言いつつも「Web は無料」という呪縛から逃れられていないのではないかという気がしてくる。

Web を日常的に使うようになったのは中学生のころだったが、その頃 Web に転がっていたものはだいたい無料だった気がする。 Web には楽しい無料コンテンツがいっぱいあったし、無料でいろいろなことを学ぶことができた。

一方、電子書籍は生まれたときから有料だった物理書籍の延長線上にあるし、ソフトウェアはパッケージの、映像はディスクメディアあるいはビデオテープの延長線上にある。 だから、心理的に課金への抵抗感が少ないのではないか。

課金は対価にすぎないのか

じゃあ、課金するいう行為が単に何かを得るためだけの行為かというと、そういうわけでもないのがコトを複雑にする。

たとえば、自分は Mozilla FoundationWikimedia Foundation などいくつかの団体に課金してるんだけど、これらの団体に課金したところで自分が得る直接的な利益はたぶんほとんどない。

「無料の Web」という願い

とまあ、いろいろ考えてみると、自分は「誰でもアクセスできる Web」が欲しいだけなんじゃないかという説が浮上してくる。

幸い、今は労働者として日々を過ごしているため収入があり、note にある大半の有料記事くらいならまあ払える。

でも、みんながそうかというとそうじゃないと思っていて、自分も数年前までは学生でそんなに余裕がなかったし、もしかすると数カ月後には失職するなどしてまた余裕がなくなっているかもしれない。

自分が学生だった頃には Web にめちゃくちゃ楽しませてもらったし、いろいろなことを学ばせてもらった。 Web に無料で転がっていた情報のおかげで、今の職業に就けているという自信がある。

だから、情報は可能な限り誰でもアクセスできるようになっていてほしい。

そんな気持ちが note へのモヤモヤの原因なんじゃないかなーというのを、現時点での暫定的な答えとしている。

まあ、こんなエラソーなことを言っておきながら、「やっぱり無料がいい」みたいな気持ちもたぶん存在している気はしていて、それも否定しない。

さいごに

最後になったが、note の有料記事が悪いとか嫌いとかいうつもりは一切ない。

ニッチな領域だったり分量がそれほどでもなかったりして、書籍にするのは難しい知見などが有料記事という仕組みで吸い上げられてくると良いなとも思っている。 それに、note に上がってるのも大半は無料記事だし、他のサービスでは今も無料で情報が提供され続けている。

今回、「何かを生み出している人たちが報われてほしい」という気持ちと「誰でも情報に到達できてほしい」という気持ちがあることに気づいたが、それらのバランスの取り方についてはほとんど何も考えられていないし特にスタンスも持てていない、というのが現在の状況。

むずかしいなー。